石牟礼道子

「九十九万九千九百九十九の次は何か、いうてみろ」 と亀太郎がいう。手にあまる大きなお椀からおつゆをこぼしかけ、わたしはへきえきして呟く。 「百万」  数というものを覚えかけてみると、大人たちが面白がって、もちっと数えてみろ、もちっと数えてみろという。数えてゆくうちにひとつの予感につきあたる。たぶんこれはおしまいという事にならないのだと。どだいそのように初歩的な数ならべなどは、五、六十銭の日傭とり人夫の日常世界には無意味なのだけれども、親バカと焼酎の肴に思いつくのである。娘にすれば親のために答えてみせねばならなかったが、いったいいくつまで数えてみればおしまいということになるだろう。数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝てる間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずうっとおしまいになるということはないのではあるまいか。数というものは、人間の数より星の数よりどんどんふえて、死ぬということはないのではあるまいか。稚い娘はふいにベソをかく。数というものは、自分の後ろから無限にくっついてくる、バケモノではあるまいか。  一度かんじょをはじめたら最後、おたまじゃくしの卵の管のような数の卵が、じゅずつながりにぞろぞろびらびら、自分の頭の中から抜け出して、そのくねくねとつながる数をぞろ曳きながら、どこまでも「この世のおしまい」までゆかねばならぬ直感がする。わたしはすっかりおびえて熱を出す。